三匹の蟻

神学者上沼昌雄氏のメルマガに、うーん、とうなってしまったので抜粋します。

「三匹の蟻」2011年1月10日(月)

年末から年始にかけてロング・ビーチの妹夫婦のところにお世話になった。土地柄と建物の年数の関係か、小さな蟻がよく出てきた。台所で何度も見つけた。ある晩に寝る前の洗面所で、シャワー室を伝わって壁伝いに降りてきて、どうも洗面所にある清掃用のスポンジにあかたかも巣を見つけたように、列を作っている蟻の行進を見た。妹が処理するだろうと思ったので、何もしないでそのまま休んだ。

次の朝に洗面所に行ったときに、あたかもそのスポンジから寝過ぎて出てきたかのように、三匹の蟻(蟻は三匹と数えるのだ!)が洗面の上の壁との境に、行き場を失って、出口を探しているかのようにたむろしていた。妹が昨晩壁をきれいにしたのであろう。列を作って降りてきたその道が消毒か何かで全く消えてしまったのであろう。ということは、蟻たちは自分たちの通り道に何かのしるしか臭いを残して、それをたどって行けば目的地にも、帰り道も確保できるようにしているのであろう。

洗面が終わっても、その三匹の蟻たちがどのように帰り道を探るのであろうかと興味があって、しばらく眺めていた。壁伝いに上ろうとしたり、洗面所を降りて来ようとしたり、それは必死に帰り道を探しているのが分かる。一匹の蟻が壁の少し上の方に自分たちが辿ったあとを探したようで上っていった。同じようにもう一匹がスポンジへの道を見つけたようで洗面器を降りていった。そしてその中に隠れてしまった。上に登った蟻は、とうとう道を見つけたようでそのまま鏡の上にまで至っていた。そのまま自分だけその道を辿って帰ってしまうのだろうか、何とも言えない好奇心に誘われて眺めていた。自分がこのような場合であったら、そのまま一人で帰ってしまったかも知れないと、心のどこかでそんな思いを認めないわけにいかないからである。

この蟻は自分たちの道が確かなものと分かったのか、しっかりとUターンをして戻ってきた。正直驚いた。誰がそんなことを教えたのだろうか。あとの二匹を救出するためにしっかりと辿ったあとをそのまま降りてきたのである。そして残っていた一匹に出会って、「道を見つけたから俺に付いてこい」と言っているかのようである。それでも「あのもう一匹の仲間はどうした」と二匹で探し回っている様子であった。スポンジに戻ってしまったあの一匹の蟻にどのように伝えるのだろうかと思いながらも、親心か何かは分からないのであるが、またいつまでも洗面所にいるわけにいかないので、スポンジのなかの蟻を傷つけないように、洗面所の上に戻す作業をした。何度か試しているうちにようやくその一匹を仲間に戻してやることができた。こちらが助けなくても自分たちで何とかしたであろう。こちらはただ結末が欲しかったのである。三匹の蟻は仲良く帰っていった。

動物を擬人化して教訓を語るイソップ物語のような寓話が、長い人間の歴史のなかで用いられてきたことに、ただただ納得した。自分だったらあとの仲間を置いて一人だけで帰ってしまったかも知れないという思いを消すことができないからである。そんな自分が恐ろしくなった。あの蟻はそれが当たり前のようにUターンして戻っていった。その創造のメカニズムには脱帽である。逆に人間の意識と自由意志は、とんでもない悪をもたらす。歴史が語っている通りである。それも創造のメカニズムのひとつなのであろうが、何とも面倒な恐ろしい世界にまぎれ込んだものである。(後略)

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