【赤毛のアン】アンではなくマリラやマシュー目線で観てしまう自分に驚き

赤毛のアン

アニメ「赤毛のアン」にはまる

最近、赤毛のアンにはまっています。アニメは50話あるのですが見飽きません。

特に後半がいい。いつの間にかマリラやマシューの目線で観ている自分がいることに驚いています。そういう歳になったということです(苦笑)。

マリラやマシューのアンに対する思いに痛く共感してしまいます。私の子供たちふたりが成人となり、その子育ての経験や大きくなった子供たちへの思いがそうさせるんですね。

若いころ、「赤毛のアン」というストーリは、空想好きなちょっとかわった女の子のドタバタ劇だと思っていたわけです。

ところが、この歳になって観返すと、空想好きなちょっとかわった女の子の”子育て日記”のように見えてくるのです。
 

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子育てのジレンマ

子育てをしていると、「立派なおとなになってほしい」という思いと「子供のままでいてほしい」という相反する思いを抱えることになります。

「赤毛のアン」41話では、マリラのその思いが顕著にあらわれています。

マリラはアンがグリーンゲイブルズにやってきたときの事を思い出し、小さなアンがすっかり成長し、自分たちから離れクイーン学院に行ってしまうことに「いつまでも小さいままで手元に置いておけたら」と泣いてしまいます。

するとアンが、

「マリラ、私はちっとも変わってないわ。ただ少し鋏を入れたり、枝を伸ばしただけなんだわ。本当の私はその後ろにいて、今までと全く同じなのよ。本当よ、マリラ。何処へ行こうと、どれほど外見が変わろうと、心の中ではこれから先もずっとマリラの小さなアンなのよ。マリラとマシュウと、このグリーンゲイブルズの小さなアンだわ。」

と、マリラに抱きついて泣くのですが、これにはもらい泣きさせられました。本当に素敵なセリフだなと感動しました。
 

アンと神の存在

その後のマシューのセリフも素晴らしい。

「そうさのう、あの子はそう甘やかされもしなかったようだ。時々わしがお節介したのも、別に害はなかったようだ。あの子は利口で、きれいで、それに何よりも良いことに優しい子だ。私たちにとってはお恵みだった。スペンサーの奥さんが間違ってくれて、運が良かったと言うもんだ。もっとも、それが運ならばの話だが、どうもそれとは少し違うようだ。神の思し召しというものかも知れない、全能の神がわしたちにはあの子が必要だと認めて下さったんだ。」

神の存在というのは、何か壮大な神秘的な経験を通してというよりも、こういう小さな日常の出来事(偶然にしてはあまりに出来すぎている)から感じるものだと思います。
 

余談

このアニメ「赤毛のアン」は高畑勲監督の作品です。

高畑監督は原作に忠実に、かつ原作の良さを壊さないように作っていることがわかります。アニメという手法を通して、本来作品のもつポテンシャルをうまく惹き出していることに感心します。

高畑監督の最後の作品である竹取物語を観てもそう感じます。

宮崎監督は原作を自分流に解釈してどんどんアレンジするという面白さはあるのですが、長い目で観ると高畑作品のシンプルさ(つまりは原作の良さ)のほうが魅力があるように思えてきました。

ちなみに2020年9月現在、アニメ「赤毛のアン」はバンダイチャンネルU-NEXTで観られるようです。

U-NEXT

配信以外で観るとなると、ブルーレイのメモリアルボックスが出ているので、それを買うのも手ではあります。価格もそれなりにするので簡単には手が出せないのが痛いところです(苦笑)。

なかなか素敵なデザインのボックスです。
 

 
 
 

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