東野圭吾さんの作品は好きなのですが、すごく良い話と、全く面白くない話があって不思議です。同じ作家さんが書いているとは思えないような差を感じることがあります。
もしかして、藤子不二雄のように二人の作家が書いていたりして。
”容疑者Xの献身”は素晴らしい
ここからネタバレになるので、容疑者Xの献身を読む、または映画を観る予定の方はこの先読まないで下さい。
容疑者Xの献身のトリックがすばらしかったです。
正当防衛で元の夫を殺してしまった花岡靖子とその娘を守るために、隣人で花岡親子に好意を持つ数学教師の石神がアリバイを作ってあげるですが、その方法が単純でありながら読者は最後まで全く気づかないように出来ています。
また最後に花岡靖子のストーカーを装って石神が殺人を犯したと自供し、すべて罪をかぶります。その殺人の自供が絶対にばれないようにトリックが仕込まれています。これは天才数学教師として完璧な計画だったのですが、最後の最後に石神に対する罪悪感から花岡靖子が自供してしまいます。
石神の完璧な計画が、花岡靖子の自供ゆえに失敗に終わるのですが、そのことに激しく困惑する石神の心中がすごく切ないです。
と、ここまでべた褒めして来たのですが、よくよく考えてみればその通りだなと思ったことがあったので、追記します。
Youtubeの【容疑者Xの献身】動画のコメントに、
「富樫の死体は今頃ばらばらにしてどこかに処分されているはずだ。」という湯川の言っていることが通用するのなら、石神はホームレスを殺す必要はなかったのでは?
このコメントに対して反射的に「ばかだな、それでは花岡靖子に刑事が訪ねて来た時にしらを切り通すことができないだろ。それを防ぐために石神はあえて翌日にホームレス殺人を犯したんだから。」と思ったわけです。
ところがよくよく考えてみれば、富樫が殺されたことが判明したのは、石神が死体を放置した結果だったわけです。もし富樫の死体を誰にも知られることなく処理することが出来るのであれば、富樫が殺されたことは誰にも気づかれなかったわけです。確かにこのコメントの通りだなと思ったわけです。
ただ深読みをするとすれば、富樫の死体を処理する時点で石神は花岡家族の殺人の罪をかぶって警察に自首することを決めていたのでしょう。富樫殺しの判決が確定してしまえば、後で仮に死体が見つかったとしも花岡家族が罪に問われることはないし、何より花岡靖子がいつか捕まるかも知れないとびくびくしながら生きていく必要がなくなるわけですから。
ちなみに原作では石神が富樫の死体は6分割して川に重しをつけて投棄したとあります。仮に見つかったとしてもそれが富樫の死体であるということを警察は見抜くことはできないと石神は考えています。なぜなら富樫はすでに絞殺体として発見されているわけですから。この点からも、本物の富樫の死体が見つかっても良いように石神は別の死体を用意したということになります。
”秘密”も素晴らしいが...
一方、東野圭吾の”秘密”という小説ですが、こちらはSFというかコメディーのような感じの話です。
乗っていたバスの事故で妻と小学生の娘が入れ替わるという話で始まります。これは”君の名は。”とか”転校生”とかの設定と同じです。
”秘密”では妻はこの事故で死んでしまい、小学生の娘が生き残ります。ただその生き残った娘の体には妻の魂が入ってしまっています。つまり小学生の娘と夫婦生活を送らなければいけなくなるわけです。中盤まで、そのどだばた生活がおもしろ可笑しく展開されます。
ところが後半、妻が学生としての生活を手に入れたことで、夫婦としての生活に微妙なずれが出てきます。この夫婦関係は無理があり、お互いが不幸になってしまうことに気づき始めます。
そんな時に娘の魂が戻ってきます。娘の魂がいる時は妻の魂がいなくなり、妻の魂がいる時には娘の魂がいなくなるというような二重人格のような状態になります。ただ娘の魂が専有する時間がどんどん長くなっていき、最後は妻の魂が二度と戻らなくなるようになります。その最後の時間はある意味、妻の魂が死を迎えるようなものですから、この別れのシーンは涙を誘います。
そして妻の魂が消滅してしまった後に、父と娘だけの生活となりました。その後娘は成長し、結婚に至ります。いろいろなことがあったけれど、娘は無事に成長し父親として役目が終わりハッピーエンドという感じです。しかし...
ここから超ネタバレですので、”秘密”を読む方、映画やドラマを観る予定の方は読まないでください。
この落ちでは夫が浮かばれない
実は、娘の魂が戻ってきたというはうそで、妻が娘のフリをして生活していたのでした。
妻しか知らないはずの”秘密”を娘が知っていることから、夫がそのことに気づいてしまうのです。
ここまではどんでん返しとして素晴らしいです。本当によく出来た話だと思うのです。
しかし、しかしです!
自分が許せないのは、娘のフリをした妻が結婚をするというくだりです。
娘の体をもった妻がいると夫はいつになっても幸せになれないので、結婚して家を出ていくのが良いことだと判断したのかもしれません。でも、そのことに気づいた旦那の前で、妻が若い男と結婚するのを見るというのは、全くいい気持ちはしないでしょ。
もし自分が作者であれば、これ全く逆にすると思うのです。つまり、妻が娘のフリをしながら、夫に新しい奥さんを探してきてあげて再婚させるというのはいかがでしょうか?
最後に妻が娘のフリをしたことに夫が気づくけれど、自分の幸せを犠牲にしても夫にしあわせになってほしかったという妻の思いを察して、気づかないふりをして再婚する。
というほうが感動的だと思うわけです。
妻が最初に若い男と結婚するなんてエゴ丸出し。娘のフリをしたのは自分が幸せになるためと思われてもしかたないです。
ちなみに自分が小説のおちに期待してしまうようになったのは、安岡章太郎の「幸福」という短編小説を読んでからです。中学生の時の国語の教科書に載っていたもので、そのおちに激しい衝撃をうけました。