米国でじゃんけんは何かを決める道具ではない
米国で生活していた時につくづく考えさせられたことは、物事を決める時にじゃんけんを使わないことの良し悪しでした。
米国にじゃんけんというものは存在しており、Rock, Paper, Scissorsなんて呼ばれています。
これは米国の全ての地域でそうなのか、自分のいた地域だけなのか定かではありませんが、じゃんけんは遊びとしてルールは理解はされているのですが、それが物事を決める時の道具にはなっていないのです。
日本人は何でもじゃんけん
日本人は何かを決めるのにほぼ無意識でじゃんけんを使います。それが当然のことになっていて、ものを決めるプロセスというものが完全に省略されています。
米国のようにじゃんけんで物事を決めない文化では、ものを決める時に2種類のプロセスにわけて考えているようです。
2種類の決定プロセス
1つは、厳密に50%の確率で不公平のないように決めるケース。もう1つは優先順位で決まるケース、です。
うまく説明できないので、例をあげます。
前者のケースは試合の先行・後攻を決めるような場合です。これはどちらが先行なのか後攻なのか完全に50%です。このケースでは不公平がないようにコイントスなどで決めます。こちらはじゃんけんでも代替可能かなとは思います。
後者のケースは、兄弟でのチャンネル争い(死語?)等です。Aという番組を観るかBという番組を観るかを決めるのに、いろいろなファクターが勘案されるべきものです。番組の重要性や、番組のリアルタイム性などは単純に50%の確率では解決できません。
ですので、ここで議論が生まれます。そしてパワーバランスや、妥協などが加味されて一方の番組が決定されます。そして今回弟が妥協すれば、次回は兄が妥協するというような順番みたいなことも発生します。
議論は面倒なのか?
日本であれば、後腐れなくじゃんけんで決めようということになるのですが、米国ではじゃんけんの文化がないので、お互いが納得するまで議論をたたかわせます。
日本人からすると正直めんどうくさい。でも、よくよく考えてみればこうやって、選択肢のどちらが大切なのか、自分の意思と相手の意思をどちらを尊重すべきなのか、妥協とは何か、みたいなことを米国人は小さいころから学んでいくのだろうなと思います。
そして、どうやったら相手を納得させられるかというような戦術みたいなことも学ぶ機会になります。米国の交渉力やディベート力というのはこういうところから培われているのではないかと思ったりする次第です。
まとめ
話をうまくまとめられませんが、じゃんけんは楽ちんで便利なのですが、弊害としてものごとを決める本質がスポイルされているような気もします。