国語の教科書がつまらない
小学生のころ、国語は嫌いでした。なぜかと言えば、教科書にでてくる話しがつまらないからです。ぜんぜんワクワクもしなければ、感動もしないのです。
教科書は子供にわかりやすいようにと簡単な文章を載せているし、小説の一部を抜粋しているから全体に盛り上げることもないわけです。
そもそも、文部省(現文科省)が考えるほど子供は幼いわけではなく、ドラえもんやブラックジャックのような大人でも感動するようなストーリーに慣れ親しんでいるわけですから、そんじゃそこらの子供向けの物語を持ってきても面白くも何とも感じないのです。
特に最悪なのは、夏休みの課題図書。これまで面白いと感じた本に出会ったことがありません。あれは大人が「子供にはこんな話しで感動して欲しい」という願望で選んだ本に違いありません。当の子供はもっと大人が感動するような話しを知りたい(読みたいとは言っていない)わけでした。その上感想文まで書かかせるわけですから、夏休みの課題図書で読書嫌いになった人は多かったと思います。
度肝を抜かれた安岡章太郎「幸福」
そんななめた思いで中学生になり、確か2年生だと思いますが、安岡章太郎「幸福」に出会うわけです。
この短編小説には本当に度肝を抜かれました。
あらすじはこうです。
昭和の初期?少年の僕が、親に頼まれて国鉄のS駅にきっぷを買いに行きます。無愛想でぶっきらぼうな駅員(確かに昔の国鉄はそうだった)からやっとの思いできっぷを購入することができたのですが、駅員は僕が渡した五円紙幣を十円紙幣だと勘違いしたようで、釣り銭を五円多くよこしたのです。
そこで僕はその自由に使える五円で、ウォターマンの万年筆を買おうか、ゾリンゲンのナイフを買おうか、それとも寿司を食べようかなどと妄想します。しかし何を買うかを決めかねて、その日は何もせず家路につくことにします。
ところがその帰路で僕はふと、きっぷ売り場の窓口にいた駅員の愛想が悪かったのは家に病気の母親がいるからなのではないかと考えはじめます。その罪悪感から窓口に五円札を返しに行く決断をします。
僕が五円札を返すとその愛想が悪かった駅員は笑顔で喜んでくれて、僕は清々しい気ちになりました。
ここまでで、自分はかなり引き込まれていました。もし自分が「僕」だったら、愛想の悪い駅員からちゃんときっぷが買えるのか?釣り銭を多く受けとったらその場で返せるのか?それとも持ち去ってしまうのか?買うとしたら何を買うか?最後に駅員に多くもらった五円を返しに行けるのか?等など、結構「僕」に感情移入をして読んでいました。
これだけでも、十分に良いストリーです。僕は誘惑に負けなかった立派な少年であり、文部省が国語の教科書として薦めるだけの十分な理由になります。
しかし、さらなる展開が!
ところがです。なんとすごいどんでん返しが待っているのです。
僕がすがすがしい気持ちで家に帰り、きっぷと釣り銭を母親に渡して、ことの顛末を得意げに話して聞かせたのです。
ところが母親は全く感動もしないばかりか、手にした釣り銭と僕を不思議そうに何度も見比べたあげくに、「馬鹿だね、おまえは...」と世にも腹立たしげな声で言うわけです。「さっきお前に渡したのは、あれは十円札なんだよ」
僕は目の前で灯が消え、急にあたりが暗くなるような気がした。
ぎゃ〜、すごい絶望感。
中学生ながら心が震えました。感情移入していた自分の目の前が暗くなるような気分でした。
こんな結末があって良いのだろうか!いや〜小説ってすごいと唸りました。あまりの凄さにこの歳になってもまだ忘れないで覚えているのですから。
たぶんこれ以来、小説の最後のどんでん返しを期待する自分が出来上がったように思います。
そして、全くのおまけのような最後の段落があります。実はこの話は大人になった僕の回想だということがわかります。
結局夜遅くに返す必要のなかった五円札を取りにS駅に行かされたのだが、具合の悪さと情けない気持ちを大人になった今でも昨日のことのように覚えている。ただあの駅員の笑顔を見ることの幸福は五円では買えないものだと考えて自分を慰めている。
さらに追い打ちをかけるようなダメダメ感。
タイトルの「幸福」をここで回収するのかと。それもすごく安っぽい幸福なんですよね。大人になった僕がこんな幸福にしがみつかないとやっていけないようなダメさ加減が読者にとどめを刺すわけです。中学生が夢見る将来がみるみるうちにしぼんでいくようでした。文部省やりすぎ(苦笑)。
ちなみに”おち”と言えば、東野圭吾の【容疑者Xの献身】と【秘密】についてまとめてみました。
「幸福」は以下の文庫の中にあるようです。