SF映画ではなく、SF風映画
”K-PAX 光の旅人”は自分の好きな映画の1つです。
一見するとSF映画のようですが、SF的なセットは全くありません。UFOも出てこなければ、超能力もありません。それでもSFという分野に収めてしまうところに脚本のすばらしさがあります。
なので、この映画のジャンルはSF映画ではなくSF”風”映画です。
主人公は宇宙人?それとも精神障害者?
この映画を面白くしているのはケビン・スペイシー演じる主人公プロートが見た目は全く人間でありながら、自分はK-PAXから来た宇宙人だと主張しているところです。
精神障害者として施設に収容されており、精神科の主治医マークとのカウンセリングでマークがプロートに君は宇宙人ではなく人間であるということを認識させようとするけれど、逆にどんどんと本当に宇宙人ではないかと考えるようになっていきます。
またプロートは一緒に入院している精神病棟の患者ををちょっとした言葉だけでどんどんよくしていきます。これは精神科医のマークが成し得なかったことです。
そして天文学者とのミーティグで、天文学者も知らないK-PAXについての高度な質問に的確に回答してしまい、天文学者を戸惑わせてしまいます。天文学者がグーの音も出なくなるプラネタリウムでの描写は観ていてスカッとします。
こうして人間にはない特殊な能力・知識を示すことで、観ている側をプロートは宇宙人に違いないと信じこませていきます。
ただ、マークはプロートの持っていた鉛筆に刻まれていた名前から、プロートがかつて住んでいた家を突き止め、そこで起きたプロートの妻と娘が他者に殺されプロートが裏の川に入水自殺した過去を知ります。
このマークがプロートの家を突き止めていく推理描写も秀逸でミステリー・サスペンスそのもの。それでありながら殺人事件をグロテスクな描写なしに悲惨さを表現し、その後のプロートが自殺のための入水していく後ろ姿がやるせなさをうまく描いているなと感心してしまいます。
この事実からマークは、プロートは自殺未遂のショックと、妻と娘が殺されたによるトラウマで精神障害になったと判断します。
この後のカウンセリング時にプロートに催眠術をかけてみると確かにそれが事実であることが判明するわけです。
しかし、プロートは自分の星に帰ってしまいます。後にはもぬけの殻となった肉体だけのプロートが残されていました。
果たしてプロートは彼の肉体を借りて活動していた宇宙人だったのか、それともただの精神障害者だったかは観ている側の判断に委ねられます。
エンディングの和解のシーンにぐっとくる
エンディングはマークがこれまで拒絶していた自分の息子を受け入れるシーンで終わります。Tシャツに革ジャン、肩にズタ袋をかけ、眉にピアスをしている息子と再開するのですが、医師としてそんなパンクな息子をこれまで受け入れられない思いがあったのでしょう。しかし、そんな息子をありのまま受け入れることをマークは決心したわけです。
ここでプロートのナレーションでマークへ残したメッセージが流れます。
マーク、K-PAX人は知っていて君のまだ知らないことを教えてあげよう。この宇宙が広がり続けてそして縮まり、このプロセスを永遠に繰り返していることをK-PAX人は発見した。
しかもこの宇宙が再び広がる時に、現状と同じ状態を繰り返すのだ。もし今間違いを犯していれば、次回のプロセスでも同じ誤ちを犯すことになる。すべて同じ誤ちを犯しながら何度も何度も永遠に生き続けることになる。
だから今君にアドバイス出来ることは誤ちを正すこと。なぜなら君が出来るタイミングは今だけなのだから。
このメッセージがかっこいいんですよね。そしてマークはこのメッセージに素直に従ったわけなんですよね。もしかするとただの精神病患者の戯言なのかもしれないのにも関わらずです。
エンディングで、駅の雑踏の中、和解した息子とマークがぎこちなく二人で歩いていく後ろ姿がフェードアウトしていくところがなんともいえない気持ちよさがあります。
エンディング部分
実は精神科医のマークがプロートをカウンセリングしていたのではなく、プロートがマークが抱えていた彼の心の問題を解決してあげたというのが、一番のポイントであり、テーマになっています。
限られた人と場所、しっかりした脚本
この映画で感心するのは人も撮影場所も限られているということ。登場人物はプロートとマーク、精神病棟の患者数名、病院のスタッフ数名と限らているし、撮影場所は精神病棟とマークのオフィス、マークの自宅、プロートの元自宅、プラネタリウム、駅、程度。たぶん予算のほとんどはケビン・スペイシーとジェフ・ブリッジス二人のギャラだと思います。
こんな制約の中でも脚本がしっかりしていると良いものが撮れるという見本のような映画だと思います。
まだ、観ていない方はよろしければ一度観てみてください。
予告編